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写真や動画付きで日記や趣味を徒然に ^^!

カテゴリ: 2017.3 奥三河から直虎

前回

2017.3.30--31
昨年の木曽路ツー2016.4 中山道木曽路ツー
 昨年、妻籠宿側からの断念した大平宿」へ 
   しかし飯田峠から再トライ敢え無く断念 
     日本茶道の名水猿庫の泉」も閉鎖中 

 翌日寄り道ツー降雪注意報で、
  仕方がなく・中央道直帰の憂き目を見ましたよ 


動画編


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今回は、飯田峠から登ったけど・・
   昨年に引き続き・通行止め 
     来た峠を引き返す途中に

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なるほど・・5月から10月までだね
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どおりで誰も居ないはずだ 
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上がりきった所の岩の間から猿庫の泉は湧き出し、付近の方々が設けられた筧と通って、流れ落ちております。この付近の山は御影石(花崗岩)が中心であり(これは神戸の灘・山梨県の白州尾白名水と同様ですが)、ミネラル分が御影石に吸収されて、癖のない喉越しの良い、甘露な味がする、
天下の名水・だそうだ! 
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          勿論、名水は、銘酒にも
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          時期が、合えばこのようなサービスも


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マァ・時間も遅いしね 
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お世話になった「朝恵
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当然・・カッパ上下をシッカリ着込んでスタート 
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雪雲に追いつかれないように 逃げるだけ 
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インカムで、今回は、このまま帰ろと・・
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ノンストップでここまで強引に戻りましたよ 
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此処まで戻れば 一安心 
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昼には、お土産を食べながら土産話・・
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  チョイト最終日は、勿体なかったけど
    充実のツーリングでした

     無理は禁物 また機会があれば周ろう 

前回

2017.3.30
本丸が諸藩の居城中最も高い岩村城の何重もの見事な石垣 
「霧が城」でのコーヒータイムは、最高だったね

まだの残る「塩の道」を北上し
 昨年、断念した「大平宿」飯田側からトライ 


   エェ‥・そんなぁ 

動画編

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道の駅信州平谷(みちのえき しんしゅうひらや)は、長野県下伊那郡平谷村にある国道153号道の駅
併設されている「信州平谷温泉ひまわりの湯」「しょうかん亭」
「ほっとパークひらや郷(Go!!)」標高は920メートル
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昨年に引き続き・・通行止め 
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結局、通行不可の旧道 
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  さぁ・・市田の今夜の宿へ

    もう陽が暮れる山間は、薄暗い 

前回

2017.3.29
岐阜名城日本三大山城の「霧ヶ城・岩村城址」へ 
 圧倒的な標高の幾重にも重なる石垣の見事さ
  岩村宿を見下ろしながらのコーヒーブレイクは、絶品だ 

動画編

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岩村城岐阜県恵那市岩村町にある中世の日本の城山城跡)で、江戸時代には岩村藩藩庁であった。
付近はが多く発生するため別名・霧ヶ城とも呼ばれる。
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岐阜県指定史跡/梯郭式山城
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岩村城は恵那市の南部に位置し、明知鉄道明知線岩村駅の南東に位置する
城山山上にある。 本丸が諸藩の居城中最も高い 
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その子孫の岩村遠山氏戦国時代に至るまでこの地を治めた
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景朝遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは
城館的なものであり、織田氏徳川氏武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏武田氏の手で本格的な城山を構築
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岩村城の縄張り図
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本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていた         
二重櫓が2基あったが天守はなく、三の丸大手口にあった三重の到着櫓が天守と言えるものであった

 岩村城主と家紋
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本丸虎口の石垣(六段壁の異名を持つ)


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1571年(元亀2年)信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で
幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった 
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廃城令により、1873年(明治6年)城は解体され石垣のみとなった
藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に全焼した



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城の麓の藩主邸跡において、藩主邸の一部、表御門平重門太鼓櫓
平成2年(1990年)に復元された
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受け継がれる女城主の優しさ・長閑な風にふかれて「歴史の町並み
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雛人形は江戸期から代々伝わる由緒あるものや、岩村藩主邸にまつわる
古今雛、天保年間につくられた御殿雛など、様々な趣のある雛人形を
約70ヵ 所で3月1日から4月3日まで展示  
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よそ見していると・・落ちそうだね 
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農村風景・東から西に傾斜した岩村盆地の中に
 白壁の昔ながらの農家土蔵が点在します 
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 昨年、通行止めで通れなかった大平街道

  反対側から大平宿へトライしたけど

   エェ・・今年もカァ 

次回

前回

2017.3.29
明知鉄道線に沿って「農村景観日本一」をのんびり楽しむ 

恵那山岩村城址のある城山に抱かれた岩村の町
 八百年余年の歴史を持つ三万石の城下町
  歴史の町並みや数多くの旧跡を有し
   情緒あふれる史跡観光の町で食べ歩き 

動画編

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道先案内人のノンさんの頭脳には、ナビに記されていない
様々なルートが、入っているらしいが、たまには、
思惑が外れての行き止まりなどのミスコースが、また楽しい 
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ナビは付いているが、恐らく方向を知る為のものらしい・・


小生もナビは、付いているけど・目が悪いので、聞くだけナビで、
余り・・役に立っていないのだけどね 
チョイト余談ですが、
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i-pad miniに付けているライダーと北海道ツーで、偶然、出会って
アドバイスをしてくれたけど・・そろそろ考えようかなぁ 

ハワイなど海外でのドライブでは、必需品のi-pad 
近頃は、スマホでナビを利用するけど画面の小ささは、否めないね 


恵那市(えなし)は、岐阜県南東部の市で、景勝地が、多い 
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田舎道、昔を偲ぶには、絶好なシチュエーションを提供してくれる
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気候は、夏は比較的冷涼であり、冬の寒さが厳しい 
山間地に入れば入るほどその傾向は大きくなる。
冬の降水量は少なく即ち降雪の少ない乾燥した気候となる
山岡町ではその気候を生かし、寒天の生産量が日本一 
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方言

恵那市東海東山方言の中の美濃弁に属するが、濃尾平野で話されているような連母音の融合は無い。愛知県に接している旧明智町旧串原村旧上矢作町三河弁の影響が見られるそうな 
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その昔、天明の大飢饉の時に、
このお湯によって多くの人が癒され命を救われたそうです。
そのため寛政3年に感謝を込めてお薬師様が祭られたという伝説の温泉 

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鉄道ファンにとっての見所としては,現役の腕木式信号機岩村駅と明智駅)やタブレット交換(岩村駅),それにきっぷの硬券がある

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ノンさんの向こうには、ここら辺では、焼肉有名店の女将Kikoさん
ハーレー乗りの素敵な妃・次は、寄らせてもらいますよ 


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女城主の里めぐり
戦国時代、織田信長の叔母が全国的にも珍しい女性の城主として実権を握っていたという史実に由来して、いわむらは「女城主の里」と呼ばれています
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おんな城主「おつや」が善政を敷き、
   最後まで領民を守ったと伝えられ ている

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明治の頃に松浦軒本店から分家したその名も松浦軒本舗というお店です
其々に味が異なり 今のものとはかなり違うそうな 

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つしにかい」または「中二階」とも呼ばれる。江戸~明治にかけて建てられた古い様式。ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴
昔は主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。
2階には開口部として虫籠窓を伴うことが多いそうな
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キット此処にも美味しい酒粕が、有るに違いないが、


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3月ももう終わりだが、アチラこちらに お雛様が飾られているね 

シットリさが少なく甘さも控えめ
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カステラは、室町時代の終わり頃にポルトガル宣教師によって長崎に伝えられたのが始まりで、その後、江戸時代には江戸大坂でも盛んに作られた
明治以降も、長崎を中心により日本人の好みに合うように改良され続け、今ではとうとう最初に伝わった”カステラ”がどんなものだったか分からなくなったそうです 


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蕎麦処 ゆい

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           PS
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前回

2017.3.29
信濃甲斐中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運
向かなかったために
  山越えのし易いによる輸送に依存せざるを得なかった 
飯田藩の城下町である飯田宿中馬の主たる根拠地だった

動画編


タイムライン
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五街道などでは公式の伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、
宿場町ごとに馬を替えなければならずかつ駄賃や問屋場口銭を徴収された
「宿継ぎ」ことから不便であった 
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江戸時代初期頃より沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ
手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、
寛文年間頃より副業として駄賃馬稼も行うようになった 
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次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで
荷物を運ぶようになり
 元禄年間初頭(1690年代)には中馬と呼ばれるようになった 
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中馬宿場町馬を替える必要がない付通し」あるいは「通し馬」と
呼ばれるの仕組で行われていたため、
手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く
急激に成長していった 
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伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受けただけではなく、江戸幕府の公的
輸送負担を課せられて二重の意味で苦しんでいたため中馬に激しく反発した
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飯田藩のほぼ全域を貫く飯田街道伊那街道)では
中馬の規制が緩やかであったそうな!
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松本宿へ600駄、上諏訪宿下諏訪宿へ800駄の宿継ぎを義務付けた以外は
規制が行われなかった 
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南信濃4郡伊那郡諏訪郡安曇郡筑摩郡)を中心に隆盛となった 
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勢力を拡大させ、明治に至ったが、
  鉄道道路の整備とともに衰退していった 
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旅人も馬も一休みして喉を潤したのだろうか 
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中馬は普通1人で3・4頭の馬を牽引し、100貫前後の荷物を1度に運んだ
中には、江戸名古屋に直接乗り入れる者もあった。
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料金は原則として到着先で支払われるが、荷預の際に
荷物代金の7割敷金」名目で保証金として預かっていたそうな
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11:00 大馬渡峠ー「おおばど」と読みます
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標高 620m
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途中に・
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街並みも人情もふくめて日本大正村 紹介

明治と昭和の間に、人の心がありました。
古きよき時代のモノを再現したかったのではありません。
町をそっくり、その空気で包みたかったのです。だから「日本大正村」は、人の手づくりとボランティアが基本なのです。

明智町は大正の頃、製糸工場がたくさんございまして、
その頃の建て物も数多く残されております。
だからというわけではございませんがお陰さまで、
人情もまた大正の頃の素朴さを残していてくれます。
やさしさも失われていないと存じます。
大正村は囲炉裏ばた。
何はなくとも、熱いお茶と、語らいでもお土産になさってくださいまし。
大正村はそんなところでございます

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  明智駅
  1934年6月2 国有鉄道(鉄道省)明知線の岩村-明知が開通、
  終着駅「明知」として開業
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明知鉄道は、明知鉄道恵那駅を起点に、終点明智駅まで東美濃地方
高原地帯を縫って南下する、全線25.1キロの路線です 
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沿線には800年余の歴史を秘めた岩村城跡寒天料理の山岡滝温泉花白温泉、そして大正ロマンを今に伝える大正村など四季を通じて見所は豊富
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恵那駅岩村駅明智駅以外の駅は、無人駅 
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                明智光秀
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明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、
本能寺の変を起こして信長を暗殺。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したもとされる。
これは光秀信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言うね 

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色んなハイキングルートが在って1日楽しめそうです 
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こんな可愛らしい列車の旅も・・イイかも 
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名鉄名物焼き芋も美味しそうですよ 
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  モウ・昼も過ぎたので、

   何処かで、蕎麦でもいただきましょう 

次回

前回

2017.3.29
井伊家ゆかりの地 ・奥三河新城市)は、
歴史を動かした長篠の合戦」を偲ぶには、余りにも手がかりが少ない
日本各地に有力な戦国大名が群雄割拠するこの時代 
云い伝えられている土豪の戦略戦術などの武勇伝
勝敗を決する決め手想像するのもまた楽しい 

さて今回は、廃線後 50年経っても軌道敷トンネルが、
生活道路となって地域に貢献している旧田口線 
残雪中馬街道大馬渡峠へ 

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  今は、跡形も残っていない
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 さて 明智光秀のお膝元 恵那市明智町

   「日本大正村」で不思議な体験が待っていた 

前回

2017.3.29
・・満腹の状態でなので、高速の巡行は丁度いいね 
   でも~浜松SAでは、思わず「おでん」「メロンパン」に・・

歴史的井伊長篠城設楽合戦場
   旧田口線廃線利用町道を行く

動画編

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NEOPASA浜松上り | サービスエリア
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新城 市
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日本各地に有力な戦国大名が群雄割拠するこの時代、
奥三河には、山家三方衆と呼ばれる土豪がいました
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井伊家ゆかりの地 ・奥三河(新城市)
奥平氏は、
1375年上野国(現在の群馬県)から作手の地に至り居を構えました
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今川武田西織田松平などの有力大名に囲まれたこの地では、
自家の存続のためめまぐるしく従属関係を変えなければなりません。
時には親子が敵味方に分かれて戦うこともありました 
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天正3年(1575)、奥平貞昌徳川氏の従属として
長篠城に入ったことから、歴史は動きだします 
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豊川宇連川の合流点に位置し、北方に人工の塀と土塁を築いた堅固な城 
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戦国の世の常として、今川武田徳川にと帰属を変え、
天正3年には21歳の奥平貞昌が城主となりました
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武田信玄の子勝頼が父の上洛の夢を果たそうと1万5000の大軍により包囲しましたが、奥平貞昌は500の兵で篭城に耐え抜きました。
名城百選にも選ばれています
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武田の包囲網を危険を顧みず突破し、織田徳川連合軍の援軍を
岡崎の徳川家康に求める使者として奥平貞昌から命ぜられた家臣。
その活躍は三河武士の模範として今でも語りつがれています 
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   鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える場面の錦絵

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城をめぐって繰り広げられた織田徳川連合軍の鉄砲馬防柵
武田の騎馬隊の戦いは斬新さ、合理性を追求した信長と、
伝統に固執した勝頼との激突であり、新時代性旧世代性との対決でした

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この戦いの勝利の後、奥平家は新城の地に移り城を築き、
新城城主として新城の町の礎を築きました 

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鳳来寺は、大宝3年(703年)、利修仙人によって開かれた真言宗の古刹
仙人は、山城国に生まれ、現在の峰(鳳来地区)に移り住み、霊木7本杉の
1本から鳳来寺本尊となる峯薬師如来をつくりました。その後、百済の国で
仙術や仏教を学び、鳳凰に乗って帰国し鳳来寺山中に3匹の鬼を従えて住んでいたといわれています (真言宗五智教団の大本山)
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薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集め、江戸時代には
徳川家康誕生のゆかりの地として幕府の厚い保護を受け、
21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていました
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虎松鳳来寺
命を狙われた直虎虎松は、城を出て龍潭寺に身を寄せました。しかし、
龍潭寺にも危険が及んでいることを察した直虎は、南渓和尚の進言もあり
虎松鳳来寺に預けることを決意しました。
古くから「殺生禁断の地」として知られており、平安末期には源頼朝が3年間匿われた場所でもあります。こうして8歳から14歳まで鳳来寺で過ごした虎松は、寺の僧侶達によって武将として必要な教養を学びました
命を狙われた虎松(後の井伊直政)もここで匿われていました
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三州街道伊那街道中山道塩尻宿から分岐、飯田を経由して東海道の岡崎宿までの街道で、信州の伊奈地方を縦断することから「伊奈街道」、又、中馬と呼ばれる駄賃馬稼が盛んだったことから中馬の道」、「中馬街道などと呼ばれました
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 此れから暫く寒狭川沿いに

  終点のイワク因縁の三河田口駅まで、

   山間の田口線軌道敷廃線道路を登ります 

次回

前回

2017.3.29
前回、薩埵峠で食べた 甘いポンカン春の味だったね 

今回は、「大やきいも」絶品「静岡おでん」や 
   鞠子宿「丁子屋」名物「とろろ汁」421年の旨味
  
明治大正昭和・平成揃踏み隧道・・

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昭和中期の面影を色濃く残す木のぬくもりが広がるレトロな店内 
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牛すじだけ100円、あとは全て60円 
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20年以上つぎたしている自慢黒つゆ 
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練りからしを添え、青海苔鰹節からなる「だし粉」をかけます
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昔ながらの変わらない味と風景が、どこか懐かしいね 
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看板商品の「焼いも」「大学いも」・家庭の味の「おにぎり」
夏の人気は「かき氷」が、これまた絶品の自家製の密をかけて是非にと 

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今回は、チョロットお堀端を走って・・思いを馳せる 
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歌川広重「東海道五十三次・鞠子」
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  歌川広重「隷書東海道・鞠子」

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    峠越えに使われた旧道が幾つも残る
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「明治のトンネル」が開通する前に使われた、
         江戸時代旧東海道も、残されています 
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平安時代、古代東海道にあった小川駅が廃止されたことに伴い、それまで
太平洋側にある日本坂を通過していた交通が宇津ノ谷蔦の細道へと移った

明治のトンネル
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伊勢物語」:『駿河なる宇つの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
・昼なお暗い山道を歩くのは、ずいぶんと心細いことだったのでしょうね 
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民間主導のトンネル事業自体、とても珍しいものでした 
通行料は、当初、大人
2厘でしたが、後に値上がりして6厘となり、
大荷車3銭2厘荷馬1銭2厘人力車1銭5厘 

1876年(明治9年)開通、1896年(明治29年)火災により焼失 
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1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、蔦の細道のみでは進軍に不足であったため、現在の旧東海道にあたる別ルートを整備し通過した
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くの字に曲がったトンネル・・・
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危険を伴う複雑な形をしたトンネルだったため、トンネル入口には、太陽光を採り入れるための反射鏡が設置され、内部には50ものカンテラが吊るされていましたが、
それでもただでさえ暗いトンネル内部において、入口から出口が全く見えないこの
くの字トンネルは、中央付近に行くと、顔を伺うことすら出来なかったという
記述が、明治天皇の御幸に同行した記者により残されています

1876年(明治9年)開通、1896年(明治29年)火災により焼失 
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岡部側は、比較的地盤が良かったため、トンネル内を角材で覆うという、
木角合掌造り」という工法だったが、
この闇を照らしていたカンテラが原因となって火災が発生
1904年に修復 くの字から一直線に 
内壁も耐火性のある赤レンガで覆いつくされた、美しいトンネルへと変貌
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静岡側から20m近くまでは、地盤が悪く崩落の危険性が高かったため、「青石造り」という石組みの工法だったが、現在は、色合い豊かな赤レンガの重みのある内壁と、トンネル内を照らすやさしいりによって照らし出されている 
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時代の変遷の中、1889年4月に、静岡~浜松間に「鉄道」が開通すると、
主役の座を追われ、やがて利用者も減っていったんだね 
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時代時代のトンネルの歴史を知ることが出来るとともに、
日本の道路交通の発展も大いに興味深いね 
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江戸時代になり、宿場参勤交代の制度とともに東海道は整備された
峠周辺にも鞠子宿岡部宿が置かれ、峠付近にも宿や商店が立ち並んだ
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丸子宿岡部宿の間に存在する宇津ノ谷峠 
 中間地点「間の宿」と称する旅人の休憩施設
  宇津ノ谷「十団子」という名の団子が名物 
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通りに面して並ぶ家並みの軒先には、今も屋号が下げられています
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宇津ノ谷の集落は、今も変わらない姿でひっそりと佇んでいます 
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      腹ごなしにもとても好いルートだったね 







前回

20173.29~31

前回の河津桜は、1週間から10日 満開を過ぎてしまい 
・・今ひとつの状況だった 

そんなこともあり今回は、昨年より2週間早く出かけたのだが、、

動画編

タイムライン
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9:30・・何処かで見たような イベントに行く途中だとか 
              ケニー佐川 さん
ケニー佐川(佐川健太郎)
米国ケビン・シュワンツ・スクールを修了し、
現在は「ライディングアカデミー東京」の校長兼チーフアドバイザーとして
活動している
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由比本陣公園
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由比城主由比助四郎光教桶狭間の合戦で、主君今川義元に殉じて討死してから、江戸時代その子権蔵光広が帰農しこの屋敷に住し、代々岩辺郷衛門を襲名し本陣職・問屋職をつとめ、近郷、きっての名家として大名的な存在であった
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正雪紺屋(由比正雪生家)
由比正雪駿河由比の紺屋弥右衛門の子として生まれ,楠木流の兵書を学んだ江戸初期の兵学者由比正雪の生家といわれる紺屋(染物屋)で、染物道具や神棚などの道具や仕事場がそのまま残されています
慶安事件」の首謀者として知られ、その企ては事前に発覚したため、
 自刃している 
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由比駅 
同地で産出される海産物果物を運び出すには鉄道が不可欠と考え、1913年に再び駅設置の請願書を国有鉄道を当時管理していた鉄道院に提出、2年半後にようやくそれが認められて駅が設置される事になった
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由比宿は「由井油尹湯居」などとも書かれたので、
表記の名称の統一がなされた。桜えび通 
越後の「親知らず」と同様な狭隘な土地東海道本線国道1号も通っている
桜えび」と富士山絶景の場所埵峠」で知られる地で、漁業と観光の町である
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古い集落の残る旧道を行くと、右手に「間宿」の脇本陣だった「小池家
大戸くぐり戸、格子造り、なまこ壁などに江戸時代の面影が残る
 ★「藤屋
 「望嶽亭」と呼ばれた有名な茶屋で、多くの文人墨客で賑わった。
明治元年3月7日山岡鉄舟官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、
隠し、階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して
行ったとエピソードが残る。店の前に一里塚跡もある


旧道の外れに右脇への急坂が、壁の様に現れる 
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★薩埵峠登口
峠を越える道は上道中道下道の3通りあった。
下道は、この一里塚を左折し海岸に出て、波の合間を利用して、波打ち際の
岩の間や浅瀬を通る道は、まさに親知らず子知らずの難所であった。
それで作られたのが中道、上道は、一番最後で、現在では消失している。
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★薩埵峠山之神遺跡
昔山の神が祀られていた所眺めのいい所で海の向こうは伊豆半島 
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★薩埵峠の展望
ここが安藤広重浮世絵に描いたと思われる。東海道五十三次由井宿の場面
東名高速道路JR東海道線は、ここから薩埵峠のトンネルに入るところで、、
天気がいいと一番奥には富士山が見えるが今日は見えないねぇ 
2013/5/17は、いくらか見えたけど・・
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この先に展望デッキがあるけど・・止めた 
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       ★薩埵峠碑
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畑を手入れしている旦那に話を聞くと(前回は、お母さんだったけど)
   糖度:12もある、甘いポンカンだよと 
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次回

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