kz0901のblog

写真や動画付きで日記や趣味を徒然に ^^!

カテゴリ: 日産ヘリテイジコレクション

前回


日産自動車ラリー戦績にも、
素晴らしく輝かしい実績が、残されている


東アフリカのサファリラリーや 
オーストラリアのサザンクロスラリーなどの国際ラリーだ・・・

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学生の頃は,大学ラリーが盛んで、毎週のように週末になると

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各大学や様々な団体のラリーダートトライヤルなどの競技にも参加していた

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山の中を・迷走し 4~500Kmは、駆けずり回っていたな 

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勿論、今のWRCの様なハイスピードスペシャルステージ争うものではなく 如何に決められたコースをコマ地図で探し決められた時間と速度を計算しながらオンタイムで、走ることができるか鍵でチームワーク戦だったで、楽しかった 

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タイガー計算機などという手動の大きな重たい昔の手動式計算機を無理やり取り付けて車中で計算ハンドルを回す、激しくダート駆け抜ける車内でナビゲータコドライバー)は、それこそ細かな数字とにらめっこをしながら必死に回す。
ドライバーコントロールし山の中のCPチェックポイントを探しながら夜通し走り続ける・結構ハードなのもだったね 

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コマ地図を頼りに決められたコース決められた時間CP通過するのが、なかなか難しく ミスコース計算間違いなど常に付きまとう・・でも和気あいあいで、のめり込む面白さ 

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出場する車も様々で、チーム名もユーモア溢れるものだった今でも覚えているが、ポルノNo1とか・・

主催する大学によって其々、
      特色があり・・確か 

慶応(ソフィアラリー)は、スピードが速くて、、
一ツ橋は、難問な計算が、必要
東女は、凄い車が,出場する・・・などで、

オーガナイズコース作り
  サービスなども楽しかった 

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それがだんだんとプロラリードライバー化し様々な計算もPC化し更に 一般競技として盛んになると競争エスカレートして急激にスピードラリーしていった。

ワークスファクトリーで、海外も視野に入れた走りの競技になって車作やサービスにも多大な費用が,かさむようになりプライベートでは、気楽に楽しめなくなった、

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スピードが増しスペシャルステージも増えた結果、
山道から転落したり死亡事故なども起こるようになってしまった為に規制が、強くなり大学ラリーは、縮小していった。

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東急の:五島 哲さんが、憧れのディ・チューンので、参戦したときには、
ヨダレが、出るように 舐めわましていたけ・

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三菱のファクトリードライバーとして木全巌篠塚健次郎が、活躍したのも此の頃だ 
毎回のようにワークス車が、出て来た

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その頃はまだ、プライベートでガッある走りで、いつも上位入賞の 岩下吉雄さんなど忘れることができない 

よみうりランドの裏手にあった多摩サーキット」 
ダートトライアル用のサーキット

現在は閉鎖されている)

稲城南山の山中にあったオフロードコースで、
世界的に有名なドライバー激走をしていたコースやその頃秩父の山は、ほとんどが、ダートで練習場だった




当時、乗っていた同じカラーのノーマルなP510が、素晴らしく綺麗な状態で、展示されていた 

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頑固一点張りの車で故障知らず
    仲間と随分と出かけました 

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ラリーに染まりかけた頃には、
様々と改造して参戦をした

そんな思い出の写真額が、
今でも自分の部屋に飾ってある

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写真は、随分と色あせてしまっているが、

記憶は、45年を超えて 
   鮮明に蘇えってくれました。



次回


前回



日産自動車は、日本におけるモータースポーツのパイオニアの1社

り、日本だけでなく海外でも様々なレースに参加して数々の

実績を積み上げ、高い技術力を示している。

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スポーツプロトタイプカーレースに初めて参入したのは1966年



ただしこのマシンは、その名のとりフェアレディSR311に

2リットル直列6気筒の純レース用エンジンを搭載した暫定版。

この後ミッドシップの純粋プロトタイプが開発される予定だった

プリンス自動車との合併でお蔵入りになった。

プリンスから引き継いだR380R382に至るR38シリーズで

トヨタポルシェを破り

1968年1969年日本グランプリを制覇した。

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その後排気ガス対策を名目にスポーツカーレースからは撤退し、

1970年代前半にはツーリングカー路線にスカイラインGT-R

参戦し圧倒的な強さを誇るが、1973年の第一次オイルショッ

より一時ワークス動を休止する。

ただしワークス活動休止後も、日本独自のフォーミュラカー


エンジン供給など、一部活動は継続していた。

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1980年代に入ると販売会社側からの要望に応える形でシルエット

フォーミュラを皮切りに徐々にワークス活動を再開し、1984年


インターナショナル(ニスモ)を設立すると本格的にスポーツ

カー耐久レースに取り組むこととなる。

そして1986年からル・マン24時間レースにも参戦するようなる

が、現在まで10回の挑戦で最高位は1998年の3位 

(マシンはR390GT1)。2008年現在は参戦休止中である。

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(WSC)1989年1990年の2年間フル参戦した。


(JSPC)3連覇(1990 - 1992年、マシンはそれぞ


総合優勝(1992年、マシンはR91CP)を成し遂げている。

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現在は1993年から継続参戦している全日本GT選手権

SUPER GTの参戦がメインとなっており、上位クラスのGT500

クラス2003年まではスカイラインGT-Rで、2004年2007年

まではフェアレディZで参戦していた。

2008年からは前年にデビューした日産・GT-Rを投入する。

また下位クラスのGT300クラスや、類似カテゴリーの


にも主にプライベーターがフェアレディZなどで参戦している。

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日本における自動車モータースポーツのパイオニアのひとつで

日産だけあり、モータースポーツ関連ホームページも開設し、

ネット上でも積極的にプロモーション活動を展開している。

日本国内のSUPER GTはもちろん、海外のFIA GTなど、

扱っている内容も幅広く、コンテンツも充実している。

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その中のひとつで、2008年から開設した


マスコットキャラクター「NISSANベア」で、彼がNISSANロゴの

入った赤いTシャツをトレードマークに、背中にリュックサックを

背負って世界中のモータースポーツを見て回り紹介する、

というものである。

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最後に待望のラリーカーのコナーへ 

次回

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大きなシャッターが、上り
さぁ・・・いよいよ 記念車 車庫へ入場 

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ミス・フェァレディの説明が,始まった 

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申し訳分け無かったが、説明は、ほとんど聞かずに・・

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此処に展示されている350台の車両は、70%が、実動車
完璧に整備保守が、されているそうだ 

先ずは、1933年の1号車からスタートだ



昔、親父が乗ってあちらこちらにドライブに行った車や 
初めて中古で買った懐かしい車
毎週のように競技に勤しんでいた嬉しい車たちが、
其れらの思い出を蘇えらせてくれる 

次のコーナーは、日産自動車の技術の結晶 

世界中で大活躍した レースラリー 車達だ 

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続きます・・・

次回


感動の日産ヘリテイジコレクション パートⅠ プロローグ


1か月ほど前にインターネットより申し込みしていたので
楽しみにしていた。

チョイト天­気が,思わしくないが、

バイク BMW F650GS で、出かけてみた。

1930年代の生産車から歴代のレーシングカーまで、

日産の歴史を物語る貴重な車両を­常時300台展示してある。



パートⅠⅡへ続く

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