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写真や動画付きで日記や趣味を徒然に ^^!

2017年06月

前回

2017.3.29
明知鉄道線に沿って「農村景観日本一」をのんびり楽しむ 

恵那山岩村城址のある城山に抱かれた岩村の町
 八百年余年の歴史を持つ三万石の城下町
  歴史の町並みや数多くの旧跡を有し
   情緒あふれる史跡観光の町で食べ歩き 

動画編

タイムライン
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道先案内人のノンさんの頭脳には、ナビに記されていない
様々なルートが、入っているらしいが、たまには、
思惑が外れての行き止まりなどのミスコースが、また楽しい 
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ナビは付いているが、恐らく方向を知る為のものらしい・・


小生もナビは、付いているけど・目が悪いので、聞くだけナビで、
余り・・役に立っていないのだけどね 
チョイト余談ですが、
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i-pad miniに付けているライダーと北海道ツーで、偶然、出会って
アドバイスをしてくれたけど・・そろそろ考えようかなぁ 

ハワイなど海外でのドライブでは、必需品のi-pad 
近頃は、スマホでナビを利用するけど画面の小ささは、否めないね 


恵那市(えなし)は、岐阜県南東部の市で、景勝地が、多い 
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田舎道、昔を偲ぶには、絶好なシチュエーションを提供してくれる
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気候は、夏は比較的冷涼であり、冬の寒さが厳しい 
山間地に入れば入るほどその傾向は大きくなる。
冬の降水量は少なく即ち降雪の少ない乾燥した気候となる
山岡町ではその気候を生かし、寒天の生産量が日本一 
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方言

恵那市東海東山方言の中の美濃弁に属するが、濃尾平野で話されているような連母音の融合は無い。愛知県に接している旧明智町旧串原村旧上矢作町三河弁の影響が見られるそうな 
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その昔、天明の大飢饉の時に、
このお湯によって多くの人が癒され命を救われたそうです。
そのため寛政3年に感謝を込めてお薬師様が祭られたという伝説の温泉 

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鉄道ファンにとっての見所としては,現役の腕木式信号機岩村駅と明智駅)やタブレット交換(岩村駅),それにきっぷの硬券がある

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ノンさんの向こうには、ここら辺では、焼肉有名店の女将Kikoさん
ハーレー乗りの素敵な妃・次は、寄らせてもらいますよ 


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女城主の里めぐり
戦国時代、織田信長の叔母が全国的にも珍しい女性の城主として実権を握っていたという史実に由来して、いわむらは「女城主の里」と呼ばれています
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おんな城主「おつや」が善政を敷き、
   最後まで領民を守ったと伝えられ ている

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明治の頃に松浦軒本店から分家したその名も松浦軒本舗というお店です
其々に味が異なり 今のものとはかなり違うそうな 

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つしにかい」または「中二階」とも呼ばれる。江戸~明治にかけて建てられた古い様式。ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴
昔は主に物置や使用人の寝泊まりに使われていた。
2階には開口部として虫籠窓を伴うことが多いそうな
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キット此処にも美味しい酒粕が、有るに違いないが、


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3月ももう終わりだが、アチラこちらに お雛様が飾られているね 

シットリさが少なく甘さも控えめ
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カステラは、室町時代の終わり頃にポルトガル宣教師によって長崎に伝えられたのが始まりで、その後、江戸時代には江戸大坂でも盛んに作られた
明治以降も、長崎を中心により日本人の好みに合うように改良され続け、今ではとうとう最初に伝わった”カステラ”がどんなものだったか分からなくなったそうです 


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蕎麦処 ゆい

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           PS
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前回

2017.2.27
下賀茂温泉那珂川で、ゆったり見物が出来ましたね 

さて駿河湾側に出ると風光明媚な海岸線が続く  
  西伊豆噂の露天風呂2ヵ所を廻ります 


動画編

タイムライン
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マーガレットライン」の愛称は、日本一のマーガレット産地であったことに由来。かつては有料道路の区間で、交通不便だった地域を一気に町へ近づけた。切り開いた森の中を抜け、上り下りやカーブを繰り返しながら走り、駿河湾の美しい海が見える。道136号の子浦から雲見まで延びる、約20kmの道路
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マーガレットライン雲見で終ると そのまま「富士見彫刻ライン
雲見から松崎の街場の手前までの間に21体の彫刻 
地元彫刻家の作品を野外展示したもの

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石部地区は、駿河湾越しに南アルプスを望める棚田や、変化に富んだ海岸線など、昔からの素朴な里山が広がり、「日本一美しい村」に加盟が認められ
スーパーもコンビニも無い、のどかな景色の中にあります 
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気軽に入れる混浴温泉で愛されるサッパリ露天風呂 
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石部温泉伊豆の画像・・お湯が入っている様子が分かりますよ 
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残念ながら・・
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仁科灯台は撤去されてしまったらしい 
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   入浴しているのは、女子風呂ばかりで、男湯は、空 
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沢田公園露天風呂へ行く前に!見どころをチェック - トリッ …
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灯台があっただけに断崖絶壁だね 
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見晴らしは最高 
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土日祝日ともなると並ぶそうな・・
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『白岩の壁画、海底火山の土石流と軽石』

海底火山の噴火にともなう水底土石流や、海底にふり積もった
軽石・火山灰層が作る景観
白岩山岩壁窟画(町指定文化財)では白色の海底火山灰層に掘りこまれた
洞窟の中に仏像が描かれており、
自然と人間文化との関わりの一端を知ることができます


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露天風呂は、小さくて2~3人が入ればいっぱいなぐらい 
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三四郎島象島(伝兵衛島)、中ノ島沖ノ瀬島高島の4つからなる島の
総称。トンボロ現象が見られ、大潮のときの干潮時には砂州ができるため
歩いて渡ることができる[2]
この砂州を地元住民は瀬浜と呼ぶ。三四郎島には悲恋伝説が残っている[3]


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その景色の美しさから「伊豆の松島」
     イャァ・・遊覧船もイイもんですね 
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次回は、特別篇でジックリ動画をご覧いただきます
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   東日本大震災直後の視察で、

     松島湾を巡った以来だった・・

次回

前回

2017.5.27
初めて見る尾瀬の雪原 
 雪解けの小川水芭蕉の芽吹き群生など
  嬉しい景観が、つぎつぎと現れてくる 

 流石に山の鼻ビジターセンターには、
   多くのハイカーが、やはりいるんだね 

動画編


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ビジターセンターには、沢山のが飛んでいるけど・・
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一羽だけなんだけど すぐ近くにきて愛想を振りまくね  
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料金投入は、用事を済まして 出るときにね 


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  2014.5.29の景観

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      アカハライモリ
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  尾瀬ヶ原の水生生物


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これこれ・・
 これが楽しみで1Lの水をリックに積んでも歩くんです 
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アカシボは、尾瀬保護財団のHPによると、
「雪解けが進み、地面があらわれる数日前に発生する現象で、正体や、
 発生のメカニズムについてはいまだに解明されていません」とのこと
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池塘高層湿原が形成される過程において、堆積した泥炭層の隙間が水で涵養された部分ができる。これが池塘であり、周囲とは隔絶された環境であるため、独特の生物相ができる。池塘と池塘の間は地上地下の水路でつながり、時に泥炭層の一部が浮島として浮遊することもあるそうな 
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尾瀬ヶ原の景観を観ながらのラーメン&緑茶は、 +

 もぅ・・
   堪えられません 

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 さて、ヨッピ川に架かる吊り橋を越えて 

    東電小屋へ向かいますよ 

次回

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2016.8.5
果てしなく続く釧路川河川敷きの釧路湿原道路 
 グリーンブルーが、織りなす美しい摩周国道釧路本線 

ライダーの聖地開陽台振り返れば地平線日本一の原野 
 直ぐそこに我が領地望郷台羅臼国後展望塔の哀愁 


動画編

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釧路湿原北海道釧路平野に位置する日本最大湿原
湿原の中を釧路川が大きく蛇行しながら流れている 
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駅名は、アイヌ語の「ト・オロ沼のある所)」に由来 
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塘路湖の近くに位置し、タンチョウアオサギオジロワシなど
貴重な生物が垣間見られる 
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くしろ湿原ノロッコ号」は釧路湿原釧路塘路間)をのんびりと走行しながら景色を楽しむことができる人気の観光列車
からにかけてのみ運行し、小さな湿原の湖・塘路湖のある「塘路駅
まで、6両編成の車両で釧路湿原を約1時間かけて旅をする列車 
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映画仔鹿物語の撮影に使用された景観なのです 

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釧路川は、屈斜路湖から弟子屈町や標茶町、釧路湿原を通り南へ流れ、
釧路市で太平洋に注ぐ。
 釧路町の岩保木からは、人工河川である「新釧路川」となる

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12:10
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アイヌ語の「シペッ・チャ(大きな川のほとり)」に由来する
大きな川とは、釧路川のこと

西春別駅   12:40

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アイヌ語の「シュム・ペツ」に由来するが、
その意味は「西の川」「油の川」「溺死する川」など諸説あるそうな 
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サハリンソ連国鉄向けに輸出されたもの 
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13:30
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開陽台は日本一の酪農地帯といわれる根釧原野より、
知床連山武佐岳の裾野につながる、標高271メートルの小高い丘陵です
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この一帯は農地・牧場として開拓された永い歴史を持ち、テレビ中継局が
建設、開局された昭和37年に「開陽台」として命名されるや、当時の
ミツバチ族(ライダー)の口コミなどで雄大な眺望がいっきに広まりました
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観光ルートの人気スポットとなり、知床観光の玄関口
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北根室の中心、中標津の市街より約15キロメートルに位置し
展望台からは「地球が丸く見える、330度の眺望
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豊かに広がる牧場北海道遺産に登録された格子状防風林
そして遥かに北方領土<国後島>までも一望できる 
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忘れてはならないのは・・聖地・・として
 北海道を旅するライダーたちに呼ばれている 
   ライダーたちはここを拠点に知床の自然を満喫しているのです 
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展望台奥:キャンプサイト(無料)
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開陽台星の降る里でもあるそうだが、
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・・頭上に輝く満天の星の輝き
 その大パノラマ宇宙の神秘と壮大さを発見されるのでは・・とあるね
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開陽台牧場ふれあい広場・ミルクロード など周辺には、
 立ち寄り見所ポイントが多い 
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この武佐岳(標高1005 m)が少し妨げているところから、「330度の視界
展望台からの視界という点においては360度見渡すことが出来る 
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16:10
     羅臼市街国後島が一望できる羅臼国後展望塔望郷の森 
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日の出の名所としても有名で「知床羅臼八景」の一つ。周囲は望郷の森と呼ばれ、散策路も用意されているので知床の自然に触れることもできる 
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流氷が海を覆う冬には一面 真っ白に包まれるそうな 
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6月~10月には近くに町営の無料キャンプ場が開設 
国後島の島影が手に取るように見渡せます 
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イカ漁の季節は、港にはいさり火を灯した船が並びとても 
幻想的な風景となり、そして冬には流氷の観測もすることができる 
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一日も早い北方領土の返還を目指すために開設されている 
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国後島」の面積は、1,499k㎡あり、「沖縄本島」よりも大きい
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すぐ後ろまで知床の山々が迫っている 
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羅臼市街から道道87号線を北上し、ざいもく岩トンネルの上の羅臼灯台
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  今夜の宿は、昨年もお世話になった直ぐ近くの
    「とおまわり水産
      早めに入って羅臼を散策しょう 

次回

前回

イャあ 惜しかったねぇ・・
  松山英樹 第回117回 全米オープン 第2位 
        猛追届かずも…自身メジャー最高2位タイ!
        ブルックス・ケプカが初のメジャー制覇

・・あまりにも違いすぎますが、
毎年、とても楽しみにしているラウンド 
 自宅から40分内で行ける朝霞PG
  人生GOLF大先輩方とのお散歩ゴルフ 

動画編

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杉並から30~40分で、とても近い
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今回も一番の若輩者で、先輩方々に ご挨拶 
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堤防を越えて河川敷に・
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平坦なのでカートでも楽々なのだが、
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昨年もご一緒させていただき FWで、難無くパーをとってゆく 
昨年のラウンド
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いつもの・・恒例で、練習などは、どこへ行ってもしない 
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シニア向けの設定で、女性子供達でも楽しめる  
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ゴルフ場の予約や行き帰りの運転まで、引き受けて・・ご苦労様です 

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リーダーは、カートのある所でも 乗ることは無いのです 
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勿論、先輩方は、を ゴクンごくん 
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川面に爽やかな風が、吹き抜け 気持ち イイねぇ 
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小生は、結構 足にきているのに先輩方は、悠々 

マイコースでのグタグタ ゴルフは、こんな感じ 

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・・戦い終わって

    松山は、上から2番目2位
    小生は、下から2番目ブービー

      マァ・・どちらも入賞ですね 

前回

2016.11.5
今回の旅、最後のスポット・野麦峠
    此れも日本の原風景女工哀史 

 美しい紅葉の山並みと
  多くの思い出土産を持ち帰ることが出来ました 

動画編

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野麦峠(のむぎとうげ)は、岐阜県高山市長野県松本市の県境に位置し、
飛騨国信濃国を結ぶ鎌倉街道江戸街道と呼ばれる街道の
乗鞍岳鎌ヶ峰の間にあり、標高1,672m
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古来から野麦街道があり、能登で取れたブリ飛騨を経由して信州へと運ぶ
道筋であった。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では
1尾の値段が米1斗であるものが、峠を越えると米1俵になると言われた
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に群生する隈笹十年に一度の穂に似た実を付けることがあり
土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる
凶作の時にはこの実を採って団子にし、飢えをしのいだそうな 
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あゝ野麦峠 新緑篇1982年製作の日本映画
    前作あゝ野麦峠の興行的成功を受けての続編 
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明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方岡谷へ、飛騨の女性(多くは10代の少女)が女工として働くためにこの峠を越えた
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この史実は1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)の
    ノンフィクションあゝ野麦峠で全国的に有名になった 
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小説によれば、就労先で妊娠し厳しい峠越えの最中に子どもを流産する
工女も少なくなかった。故に野産み峠となり、野麦峠となった、とある

ああ野麦峠より抜粋)

      
工場づとめは監獄づとめ 金のくさりがないばかり

      
籠の鳥より監獄よりも 製糸づとめはなおつらい

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 「工女衆がよく落ちた谷はこの辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それでやっと救いあげたこともございました。峠の地蔵様が笹原の中に立っているのはその付近で、あの谷はどれだけ多くの工女の命をのんだか知れません。わしらは先の人に離れないようにヒモで体を結び合わせ、峠の地蔵様に念仏をとなえながら一足一足命がけでついていったのでございます」明治15年生)

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野麦の雪は赤く染まった  (ああ野麦峠より抜粋)
「野麦峠の雪は赤く染まった」
その女の悲鳴が野麦の谷々に響きわたり、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた。パンツもなかった明治のこと、腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれた。
野麦を越えるときは、この辺の衆はみんな水さかずきをして出たもんです。
何しろ野麦の雪が赤く染まったという話を年寄りからよく聞いた。
(明治35年生)

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乗鞍岳御嶽山が望まれ景観が素晴らしい
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映画では、飛騨からの出稼ぎ女工の悲惨な面を強調して描かれているが、
原作では、工女の賃金にばらつきがあったことや、
「我が家は貧乏だったので工女に行けなかった」、
「実家の農家で働いていた方がきつかった」
といった複雑な背景も描かれている。
糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及している 
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アー飛騨が見える、飛騨が見えると喜んでいたと思ったら、
まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた・

道のり 『あゝ野麦峠』の道のりでは、右上の松本盆地を経由する。
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  帰ってからも様々な美味しい土産で、

    思い出記録を楽しんでます 

前回

2017.3.29
信濃甲斐中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運
向かなかったために
  山越えのし易いによる輸送に依存せざるを得なかった 
飯田藩の城下町である飯田宿中馬の主たる根拠地だった

動画編


タイムライン
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五街道などでは公式の伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、
宿場町ごとに馬を替えなければならずかつ駄賃や問屋場口銭を徴収された
「宿継ぎ」ことから不便であった 
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江戸時代初期頃より沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ
手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、
寛文年間頃より副業として駄賃馬稼も行うようになった 
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次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで
荷物を運ぶようになり
 元禄年間初頭(1690年代)には中馬と呼ばれるようになった 
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中馬宿場町馬を替える必要がない付通し」あるいは「通し馬」と
呼ばれるの仕組で行われていたため、
手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く
急激に成長していった 
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伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受けただけではなく、江戸幕府の公的
輸送負担を課せられて二重の意味で苦しんでいたため中馬に激しく反発した
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飯田藩のほぼ全域を貫く飯田街道伊那街道)では
中馬の規制が緩やかであったそうな!
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松本宿へ600駄、上諏訪宿下諏訪宿へ800駄の宿継ぎを義務付けた以外は
規制が行われなかった 
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南信濃4郡伊那郡諏訪郡安曇郡筑摩郡)を中心に隆盛となった 
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勢力を拡大させ、明治に至ったが、
  鉄道道路の整備とともに衰退していった 
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旅人も馬も一休みして喉を潤したのだろうか 
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中馬は普通1人で3・4頭の馬を牽引し、100貫前後の荷物を1度に運んだ
中には、江戸名古屋に直接乗り入れる者もあった。
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料金は原則として到着先で支払われるが、荷預の際に
荷物代金の7割敷金」名目で保証金として預かっていたそうな
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11:00 大馬渡峠ー「おおばど」と読みます
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標高 620m
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途中に・
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街並みも人情もふくめて日本大正村 紹介

明治と昭和の間に、人の心がありました。
古きよき時代のモノを再現したかったのではありません。
町をそっくり、その空気で包みたかったのです。だから「日本大正村」は、人の手づくりとボランティアが基本なのです。

明智町は大正の頃、製糸工場がたくさんございまして、
その頃の建て物も数多く残されております。
だからというわけではございませんがお陰さまで、
人情もまた大正の頃の素朴さを残していてくれます。
やさしさも失われていないと存じます。
大正村は囲炉裏ばた。
何はなくとも、熱いお茶と、語らいでもお土産になさってくださいまし。
大正村はそんなところでございます

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  明智駅
  1934年6月2 国有鉄道(鉄道省)明知線の岩村-明知が開通、
  終着駅「明知」として開業
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明知鉄道は、明知鉄道恵那駅を起点に、終点明智駅まで東美濃地方
高原地帯を縫って南下する、全線25.1キロの路線です 
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沿線には800年余の歴史を秘めた岩村城跡寒天料理の山岡滝温泉花白温泉、そして大正ロマンを今に伝える大正村など四季を通じて見所は豊富
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恵那駅岩村駅明智駅以外の駅は、無人駅 
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                明智光秀
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明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、
本能寺の変を起こして信長を暗殺。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したもとされる。
これは光秀信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言うね 

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色んなハイキングルートが在って1日楽しめそうです 
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こんな可愛らしい列車の旅も・・イイかも 
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名鉄名物焼き芋も美味しそうですよ 
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  モウ・昼も過ぎたので、

   何処かで、蕎麦でもいただきましょう 

次回

前回

2017.2.27

動画編

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那珂川堤桜並木 
西伊豆松崎から南伊豆下田に向かう静岡県道15号沿いに流れる那珂川の
堤防には約6kmにわたり約1200本のソメイヨシノが植えられて
淡いピンクの花が咲き美しかったね 🌸
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1879年4月に着工し、1880年(明治13年)9月に竣工。
総工費2630円66銭のうち、4割余りを住民の寄付でまかなった
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1975年に「旧岩科学校校舎」として国の重要文化財に指定され、
1992年には竣工当時の状態に復元された
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       入江長八による龍の彫刻
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       竣工時の岩科学校
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旧開智学校
明治時代初期に建てられた校舎を利用した教育博物館。
2005年に岩科学校と姉妹館提携している

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蛇石峠の道沿いには、見どころと言えば蛇石集落内にある蛇石(へびいし)
静かな山里の中を穏やかな田舎道が続くばかりなのだが、
しかし、それがかえって旅情を誘うね 多くの人が立ち寄る観光地より、
こうした何でもない峠道をのんびりとバイクを走らせている時こそ、
」を実感する 
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青野川千本
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青野川沿いの山間に温泉街が広がるり高温の源泉が多い 
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湯煙があちこちから立ちこめ、温泉街の風情を醸し出している 
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開湯は永禄年間といわれ開湯当初は湯治場 
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海にも近いことから、各旅館では海産物が名物 
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特に、伊勢海老が有名 
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河津川の桜見はこちら

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 さて西伊豆の海岸線に出て

  堂ヶ島で遊覧船や絶景の露店風呂を廻ります 

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2016.8.5
釧路味覚堪能できる!「釧路の台所
「和商市場」は「函館の朝市」「札幌の二条市場」と共に
 <北海道三大市場>の一つ

 此処の名物勝手丼」をテンコ盛りで、美味かったwww 

動画編

タイムライン
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しらぬか恋問
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雄大な太平洋を眺望できる 
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暖流と寒流の合流点である豊かな水産漁場を持つ白糠町。
7~8月には国道沿いにエゾスカシやハマナス、アヤメが咲き乱れます。
太平洋を一望できる恋問海岸では、家族連れや恋人同士でにぎわいます
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ようやくJR釧路前   この一角がすべて市場だ 
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鮮度抜群な魚介類が水揚げされる、北のシーフードパラダイス・釧路漁港
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今から六十数年前の話…遠い昔の出来事のような、そうではないような…。 1台のオンボロリヤカーと一匹の犬。幼子をリンゴ箱に入れ雨風を凌げる場所を探し、早朝より幣舞橋から駅前(現在の北大通り)で生きるために商いを
始めた一団がいたことを知っている人はもう殆どいないだろう…。
 人々は、よほどの時化で漁師が海へ出ない日の他は
『雨にも負けず・風にも負けず』黙々とリヤカーを曳いて北大通りへ集まり、仕事が終わればそれぞれ散って行くのであった。
 そしてこの人々こそ釧路の家庭の台所を賄う『和商』の草分け達であり、
和商市場の今日をあらしめた創業の先覚者だったのである。

リンゴ箱で育った者も今や六十半ばを過ぎ世代交代の時期を迎えました。

釧路和商協同組合 九代目理事長 山口 和泉

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ご飯を買える店は5店。具材の買える店は7店
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新鮮な魚介が整然と並ぶ、魅惑的な空間が広がり迷うことシキリだ 
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今では、勝手丼はコストパフォーマンスを期待したらいけないね
あくまでも旅のイベントとして楽しむとしよう 
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あちゃ・・予算をだいぶオーバーだ 
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釧路産高級鮭の「トキシラズ」や「ケイジ」も多い 
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  暫く歩き回っていると 同じ魚でも店によっても

    価格に幅があり見た目も分かってくるね 

PS:

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2017.5.26~29
いつもお世話になっているツーリング仲間からお誘い 

この時期素晴らしい新緑と一面の「ミズバショウ」群生 
初めて尾瀬の別世界」を観に出かけましたよ 

5年前に、仏果山へ素人トレッキングの帰り下山中に 
残雪に足をとられて左ひざを捻ってからは
久しぶりのハイクなので、十分すぎる余裕のスケジュールでね 

動画編

タイムライン
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6/26 19:30 
杉並区を出発し22:30前に到着
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第二駐車場は、閉鎖中でしたね 
東京方面からの便が良く峠まで自動車が上がるため体力的に楽な鳩待峠からの入山が半数以上を占めているそうな
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皆さん車中泊が、多かったようですね 
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寒さの中熱々の鍋握り飯で、ファイト満々 
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沢山のバス乗合タクシーが待機してましたが、ハイカーはまばら

反道路建設運動

尾瀬が有名な観光地になると、自動車で乗り入れができる、より簡便な観光ルートの建設が開始された。1960年代当時、自動車で入山できる場所は富士見峠しかなかったが、この後、鳩待峠沼山峠が整備され、峠の頂上付近まで自動車で乗り入れることができるようになった。この後、三平峠と沼山峠を結ぶ自動車道の建設が始まるが、建設開始直後の1971年7月25日、平野長蔵の子孫の平野長靖が当時の環境庁長官大石武一に建設中止を直訴。5日後、大石が平野とともに現地を視察すると、直後に建設は中止された。
竣工した道路の一部は1998年までに廃道になった 
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一番、無難なルートを選択してくれました・・
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スタート地点では、ごみ持ち帰りの袋注意事項の伝達
ごみ持ち帰り運動も、尾瀬が元祖 
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水が、流れているので、滑り易くて・おそるオソル下ります 
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スグに木道が、残雪に隠れ 足跡を辿ることになる 
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この位の残雪は、整備されているけど・・
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全くの木道が、見えないところの方が、多くなる 

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普段、開山時期には、こんな風景は、観られないそうだ、・ラッキー 
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久しぶりのハイクで、見るものすべて新鮮で、美しい雪景色だ 
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まるで冬に戻ったような感覚になるね ⛄
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雪解けした湿地に発芽したばかりの「ミズバショウ」が可愛いね 
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夏の思い出・・実際は、今頃から咲き始めるんだね 
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作詞した江間ミズバショウが夏の季語として歳時記に掲載されていることからと表現・また二十四節気においてもにあたる 
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北海道南部大沼国定公園においても群落が多数あり場所により開花の時期が違う、駒ヶ岳の噴火によってできた湿地であったり水の溜まる地形が多い為にミズバショウには適した地 
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葉は花の後に出る:根出状に出て立ち上がり、長さ80 cm、幅30 cmに達する
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南限兵庫県養父市加保坂峠
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1つの肉質の花序(肉穂花序)には数十から数百の小花があり、それらすべてが雄蕊(ゆうずい)と雌蕊(しずい)を持つ両性花

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数十万年前から1万年前までの間に周辺の火山活動により川がせき止められ、盆地が形成されたと考えられている 
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1889年明治22年) 木暮理太郎尾瀬を通過。
同年、平野長蔵らが当時処女峰の燧ケ岳の登頂に成功したというのが、比較的古い記録である。渡邉千吉郎が1894年に残した記録によれば、尾瀬の南にある戸倉村(現在の片品村戸倉)と、北にある檜枝岐村は、江戸時代から尾瀬沼の東岸で交易を行っていた。小さな小屋を立て、そこに村の特産物を置き、
かわりに向かいの村の産物をもって帰ったという 
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木道の設置更新工事は、現在は福島県域では福島県によって、群馬県域では群馬県と東京電力によって、新潟県域では東京電力によって行われている
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ツキノワグマが生息しており、過去に観光客が襲われた事例もある 
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携帯電話はほとんどの場所でサービスエリアの圏外 
公衆電話は多くの山小屋等にあるものの、衛星公衆電話なので通常の公衆電話よりも通話料が高額 
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大胆な自然の偉大さにも驚くね
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生命力の強さを再確認するよ!
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脇には、小さく可憐な花が見られるが、
近年、ニホンジカが増加し、ニッコウキスゲなどの花芽が食べ尽くされ、
極端に開花が少なくなる場所が増えたらしい 
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最も利便性の高い鳩待峠沼山峠からでも、バスの終点から尾瀬の湿原まで
徒歩で1時間ほどかかるが、冬季は降雪により、冬山経験者以外の訪問は困難である・・とあるね 
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恐らく今年の冬場は、大変な深雪の状況だったに違いないね 
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尾瀬沼の東端及び尾瀬ヶ原の西端には、ビジターセンター国民宿舎がある
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尾瀬は広大なため、日帰りで一周することは非常に難しい
このため、湿原内に多くの山小屋が設置されている 
すべての山小屋が事前予約制 
公衆トイレは山小屋の存在する場所に設置されている。チップ制が採用され、使用料:1回100円程度を入口の箱に投入するというようなシステム
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流石、ノンさん自分の庭の如く・・
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水道も流しも付いているね
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  後ろに見えている一面の雪原は、

     目指す「尾瀬ヶ原・湿原」だけど・・

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