前回
「生せは生る
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき 物には これ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には これ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家 人民には これ無く候 右三条御遺念有間敷候事 天明五巳年二月七日 治憲 花押
上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、
2015.7.29
いよいよ最終日、
まぁ・・本日中に東京へ着けばいいやと
・・寄り道三昧
先ずは、此処、山形県米沢市内の
「松が岬公園」へ
動画編
タイムライン
農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して
倹約を行った
成さねは生らぬ 何事も
生らぬは人の 生さぬ生けり」
『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状
{ 弗爲胡成:為さずんばなんぞ成らん }
歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた
・・が、 しかし
「為せば成る、
為さねば成らぬ成る業を、
成らぬと捨つる人のはかなき」
と読んだ
武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたものなのだ
因みに
「してみせて
言って聞かせて
させてみる」
の言葉を残した、
山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる
土塁や堀の周囲には200本ものソメイヨシノ桜の名所。
堀の水面に映る景色は見事だそうだ
「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴
伝国の辞は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に
申し渡した、3条からなる藩主としての心得
- 治広殿 机前
代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された
尊敬され他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることが
あっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という
敬称を付けて呼ばれることが多い
35歳の若さで隠居し、家督を治広に譲ったのは、重定が
存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させ
たいという鷹山の心遣いだったとされる。なお、治広には
それを差し置いての後継指名であった
鷹山は、籍田の礼を行っていた。
領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて
加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったもの
鷹山の愛の治世の方針に基づき、
寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した
更に藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた
上杉家は、18世紀中頃には、借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)
加えて農村も疲弊しきっていたのを立て直した
登録有形文化財
今をさかのぼること約200年前、鷹山公は、
凶作に備える施策として「かてもの」という
食の手引書を編纂し、藩内に配付しました
「かてもの」とは、{主食にまぜて炊くもの}の意で、
主食を増量して空腹を癒すことが目的であった
この書はその後の大飢饉に大いに役立ち、
他県にまで広く食糧事情を救うために役立ちました。
この教えの多くは郷土料理として今に伝えられ、
米沢地方では生活に脈々と息づいています
昨日、2016、3/26
北海道新幹線が開業した。
「峠駅」は、奥羽本線の駅で
と呼ばれているが、あくまでも通称であり
正式にこの名称を与えられた路線は
日本には、存在しないのだ
・・面白いですねぇ
それでは、、、行ってみますか
次回