前回
2017.3.29
・・満腹の状態でなので、高速の巡行は丁度いいね
でも~浜松SAでは、思わず「おでん」と「メロンパン」に・・
歴史的な井伊・長篠城と設楽合戦場
旧田口線・廃線利用町道を行く
動画編
タイムライン
NEOPASA浜松上り | サービスエリア
井伊家ゆかりの地 ・奥三河(新城市)
奥平氏は、
1375年上野国(現在の群馬県)から作手の地に至り居を構えました
東に今川・武田、西に織田・松平などの有力大名に囲まれたこの地では、
自家の存続のためめまぐるしく従属関係を変えなければなりません。
時には親子が敵味方に分かれて戦うこともありました
自家の存続のためめまぐるしく従属関係を変えなければなりません。
時には親子が敵味方に分かれて戦うこともありました
天正3年(1575)、奥平貞昌が徳川氏の従属として
長篠城に入ったことから、歴史は動きだします
長篠城に入ったことから、歴史は動きだします
豊川と宇連川の合流点に位置し、北方に人工の塀と土塁を築いた堅固な城
戦国の世の常として、今川、武田、徳川にと帰属を変え、
天正3年には21歳の奥平貞昌が城主となりました
武田信玄の子、勝頼が父の上洛の夢を果たそうと1万5000の大軍により包囲しましたが、奥平貞昌は500の兵で篭城に耐え抜きました。
名城百選にも選ばれています
武田の包囲網を危険を顧みず突破し、織田・徳川連合軍の援軍を
岡崎の徳川家康に求める使者として奥平貞昌から命ぜられた家臣。
その活躍は三河武士の模範として今でも語りつがれています
城をめぐって繰り広げられた織田・徳川連合軍の鉄砲と馬防柵、
武田の騎馬隊の戦いは、斬新さ、合理性を追求した信長と、
伝統に固執した勝頼との激突であり、新時代性と旧世代性との対決でした
武田の騎馬隊の戦いは、斬新さ、合理性を追求した信長と、
伝統に固執した勝頼との激突であり、新時代性と旧世代性との対決でした
この戦いの勝利の後、奥平家は新城の地に移り城を築き、
新城城主として新城の町の礎を築きました
新城城主として新城の町の礎を築きました
鳳来寺は、大宝3年(703年)、利修仙人によって開かれた真言宗の古刹
仙人は、山城国に生まれ、現在の峰(鳳来地区)に移り住み、霊木7本杉の
1本から鳳来寺本尊となる峯薬師如来をつくりました。その後、百済の国で
仙術や仏教を学び、鳳凰に乗って帰国し鳳来寺山中に3匹の鬼を従えて住んでいたといわれています (真言宗五智教団の大本山)
薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集め、江戸時代には
徳川家康誕生のゆかりの地として幕府の厚い保護を受け、
21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていました
三州街道(伊那街道)中山道の塩尻宿から分岐、飯田を経由して東海道の岡崎宿までの街道で、信州の伊奈地方を縦断することから「伊奈街道」、又、中馬と呼ばれる駄賃馬稼が盛んだったことから「中馬の道」、「中馬街道」などと呼ばれました
終点のイワク因縁の三河田口駅まで、
山間の田口線軌道敷廃線道路を登ります
次回
コメント