前回

2017.3.29
前回、薩埵峠で食べた 甘いポンカン春の味だったね 

今回は、「大やきいも」絶品「静岡おでん」や 
   鞠子宿「丁子屋」名物「とろろ汁」421年の旨味
  
明治大正昭和・平成揃踏み隧道・・

動画編

タイムライン
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昭和中期の面影を色濃く残す木のぬくもりが広がるレトロな店内 
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牛すじだけ100円、あとは全て60円 
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20年以上つぎたしている自慢黒つゆ 
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練りからしを添え、青海苔鰹節からなる「だし粉」をかけます
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昔ながらの変わらない味と風景が、どこか懐かしいね 
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看板商品の「焼いも」「大学いも」・家庭の味の「おにぎり」
夏の人気は「かき氷」が、これまた絶品の自家製の密をかけて是非にと 

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今回は、チョロットお堀端を走って・・思いを馳せる 
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歌川広重「東海道五十三次・鞠子」
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  歌川広重「隷書東海道・鞠子」

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    峠越えに使われた旧道が幾つも残る
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「明治のトンネル」が開通する前に使われた、
         江戸時代旧東海道も、残されています 
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平安時代、古代東海道にあった小川駅が廃止されたことに伴い、それまで
太平洋側にある日本坂を通過していた交通が宇津ノ谷蔦の細道へと移った

明治のトンネル
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伊勢物語」:『駿河なる宇つの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
・昼なお暗い山道を歩くのは、ずいぶんと心細いことだったのでしょうね 
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民間主導のトンネル事業自体、とても珍しいものでした 
通行料は、当初、大人
2厘でしたが、後に値上がりして6厘となり、
大荷車3銭2厘荷馬1銭2厘人力車1銭5厘 

1876年(明治9年)開通、1896年(明治29年)火災により焼失 
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1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、蔦の細道のみでは進軍に不足であったため、現在の旧東海道にあたる別ルートを整備し通過した
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くの字に曲がったトンネル・・・
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危険を伴う複雑な形をしたトンネルだったため、トンネル入口には、太陽光を採り入れるための反射鏡が設置され、内部には50ものカンテラが吊るされていましたが、
それでもただでさえ暗いトンネル内部において、入口から出口が全く見えないこの
くの字トンネルは、中央付近に行くと、顔を伺うことすら出来なかったという
記述が、明治天皇の御幸に同行した記者により残されています

1876年(明治9年)開通、1896年(明治29年)火災により焼失 
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岡部側は、比較的地盤が良かったため、トンネル内を角材で覆うという、
木角合掌造り」という工法だったが、
この闇を照らしていたカンテラが原因となって火災が発生
1904年に修復 くの字から一直線に 
内壁も耐火性のある赤レンガで覆いつくされた、美しいトンネルへと変貌
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静岡側から20m近くまでは、地盤が悪く崩落の危険性が高かったため、「青石造り」という石組みの工法だったが、現在は、色合い豊かな赤レンガの重みのある内壁と、トンネル内を照らすやさしいりによって照らし出されている 
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時代の変遷の中、1889年4月に、静岡~浜松間に「鉄道」が開通すると、
主役の座を追われ、やがて利用者も減っていったんだね 
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時代時代のトンネルの歴史を知ることが出来るとともに、
日本の道路交通の発展も大いに興味深いね 
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江戸時代になり、宿場参勤交代の制度とともに東海道は整備された
峠周辺にも鞠子宿岡部宿が置かれ、峠付近にも宿や商店が立ち並んだ
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丸子宿岡部宿の間に存在する宇津ノ谷峠 
 中間地点「間の宿」と称する旅人の休憩施設
  宇津ノ谷「十団子」という名の団子が名物 
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通りに面して並ぶ家並みの軒先には、今も屋号が下げられています
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宇津ノ谷の集落は、今も変わらない姿でひっそりと佇んでいます 
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      腹ごなしにもとても好いルートだったね